The Martian (2015)
Review
2015年の映画『オデッセイ』(原題:The Martian)は、火星に一人取り残された宇宙飛行士マーク・ワトニーのサバイバルを描いたSF作品である。本作は、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』に代表される「孤独な男の生存劇」を現代科学と宇宙開発の文脈に移し替えた、いわば現代版「ロビンソン・クルーソー」と言えるだろう。
「自助自立」から「連帯の倫理」へ
18世紀の『ロビンソン・クルーソー』が、プロテスタンティズム的な倫理観に基づいた「自助自立」の精神——すなわち、理性、勤勉、自己責任を象徴していたのに対し、『オデッセイ』が提示するのは、個人の努力を支え合う「連帯の倫理」である。
ワトニーは科学知識と創意工夫を駆使して極限状況を生き延びるが、彼の生還は決して彼一人の力だけで成し遂げられるものではない。地球に残ったNASAのスタッフ、そして彼の仲間である宇宙飛行士たちが、巨大なリスクを冒してまでワトニー救出に向かう姿は、現代アメリカ社会が理想とする「協力と献身」による共同体の力を象徴している。
科学の可能性とヒューマニズムの融合
このように、『オデッセイ』は、個人の力と科学の可能性を称賛する一方で、「一人の命を救うために世界が一丸となる」という、社会の理想的なあり方を力強く打ち出している。ワトニーの孤独な闘いは、単なる個人の英雄譚にとどまらず、他者の支援と信頼を前提とした連帯の物語として描かれており、その点が特に重要である。これは、ハリウッド映画がこれまで繰り返し描いてきた、アメリカ社会の一つの理想像とも重なるだろう。
この意味で、『オデッセイ』は、現代の文脈における「ロビンソン・クルーソー」のアメリカ的再解釈と位置づけることができる。困難な状況下における人間の可能性と、それを支える連帯の力を、鮮やかに描き出しているのである。